「では、和平条約締結の目標は本年中と定めることとする。
明日にでも特使には書簡を携えた上でロストールに向かってもらいたい。
…この件に関して異議のある者は?」
見渡す円卓に着く顔ぶれにはまさに老若様々な人々が並んでいるが、
異議を唱えるものは居なかった。表情からうかがえるものは多々あったにしろ。
ディンガルの制服姿があるのはもちろんだが、
礼装鎧に身を包んだ黒凱軍幹部の厳しい姿や僧服を着込んだすまし顔の神官の姿もある。
それらがディンガル皇国の枢密院と呼ばれる、この国の政事を司る人々の姿なのだった。
さらに彼らを統率するのが右手の上座で異彩を放っているベルゼーヴァ=ベルライン。
彼はエリュマルク帝以来の帝国宰相であり、
その手腕以上にアンテナのように突き立った異様な髪型が内外共によく知られている。
そしてその対面の上座でベルゼーヴァの髪をしげしげと観察している少女もまた
紅一点ながら近衛隊の軍服を着しているが、どこかちぐはぐな印象が否めない。
「ついては近衛隊長。貴殿にその特使役を務めてもらいたい……聞いているのか?」
「…へ?」
どうやらとんがり頭に意識が夢中になっていたらしい。
間の抜けた面持ちで彼女が守るべき主へとようやく向き直る。
近衛隊長と呼ばれた少女の視界にはひそかに苦笑いを堪える風のベルゼーヴァも端に映っていただろう。
その間抜け面に玉座から問いを投げた主の視線が険しさを増している。
この会議を、そしてディンガルという国を司る彼女こそ
先日新しい女帝として玉座についたザギヴ=ディンガル。その人だった。
「書簡はすでに宰相に預けてある。それをもちすぐにでもロストールに向かうように」
「は…はい」
「では以上で閣議を終了する。各自後日に備え準備を進めるよう」
「そろそろ君にも国の中枢にいる自覚をもってもらわねば困るな」
彼女の肩を叩いたのはベルゼーヴァが手にしている書簡を納めた筒である。
厳重に蜜蝋で封をされたその書簡は国事に関するものだけに壮麗な細工が施されている。
おずおずとそれを受け取りながら少女は口を尖らせる。
「そうは言うけど私、この間まで冒険者だったんだよ?急に言われても…」
事情を知らぬものがこの会話を聞けば、なぜ少女の軍服姿に違和感を覚えたのか納得できた事だろう。
「陛下が君を近衛兵として置いたのは警備目的だけではない。それはわかっているだろう。
今や君は世界中に顔が利く外交官でもあるのだ」
首を締め付けるような詰襟が息苦しいらしく、襟をいらいらと摘みながら睨みつけるように
ベルゼーヴァを見上げる少女の眼差しはなかなか猛々しい。
「世界中に戦争吹っかけて歩いたのはどこのどなたさまでしたっけ?
まさか私まで尻拭いさせられるとは思ってもみなかった」
一瞬ベルゼーヴァの表情が厳しく強張ったのは言うまでもない。
彼女の言葉どおり、ネメアに従い数々の侵略戦争を仕切ったのは他ならぬ彼なのだから。
しかしそこをぐっとこらえポーカーフェイスを通すのが彼が今も宰相の座に居る理由なのだろう。
「…そう言ってくれるな。これは陛下の望みでもある。それなら君も異論はあるまい?」
「わかりましたよ宰相閣下。こいつをティア…ロストール女王に届けてくればいいんでしょ?
了解了解」
並みの官僚であれば怒りさえ覚えるであろうその態度にもベルゼーヴァは肩をすくめるだけだった。
無礼程度で瞋恚を表す性格でもなかったが、なにより彼は知悉しているからだ。
何故彼女が竜殺しと呼ばれるようになったかを。
あの竜王を屠った英雄がこんなに華奢な少女だとはだれも思うまい。
恐るべき速度で英雄たる資質を獲得した彼女にはダブルブレードと魔術を自在に操る彼ですら
今は及ばないかも知れない。
彼が少女と対峙する可能性はただ一つ。彼女がネメアに剣を向けるときだけだろう。
「ああ、そうだ。陛下がお呼びだ。ロストールに向かう前に報告をしていくように」
ベルゼーヴァと対していた態度とはうって変わって
スキップでもしかねない勢いで皇帝の自室へと跳ねるように歩いていくさまはまさに少女そのものだった。
壮麗ながら厳格にシンプライズされた装飾の城内にその姿はいかにも場違いだが、
それを咎めるものが居るとすれば先ほどの宰相ベルゼーヴァか皇帝のみだろう。
それほどディンガルの救国の英雄、という称号は絶大な影響力があった。
重厚に閉ざされた扉の前で、乱れた近衛隊服のタイを整え、
咳払いなどしながらもったいぶってこつこつとドアを鳴らす。
「近衛隊長のぞむ、参りました!」
「入りなさい」
以前は冒険者時代の習慣そのままにいきなりドアを開いてよく叱られたものだったが
最近は漸く挨拶をすることを覚えたようだ。
まだ不慣れに見えるそのさまを警備の兵が兜の下で笑いを堪え眺めている。
部屋の中央に設えられた重厚な机に座して羽根ペンを走らせるザギヴの姿を確認してから、
胸に拳をあてるディンガル式最敬礼で直立する少女。
「…のぞむ。逆よ、逆」
左手から慌てて本来かざされるべき右手を掲げる。
その向こうでは皇帝陛下がペンを持ったままの手で鼻先を覆ってくすと笑いを漏らしていた。
「会議は終わったんだから今はリラックスなさい」
その言葉を受けて少女はほっとしたように掲げた手をおろしている。
「…いまだに慣れなくてさ、これ」
「堅苦しい場所が苦手なのはわかるけど。でもちゃんと話を聞いてくれなくては困るわ。
ロストールとの和平は大事なことなのだから」
手元の書類を文箱にしまいながらの戒め口調だった。
「はい…」
「ふふふ。でも、確かに貴女にとっては尻拭いよね」
「…聞いてたの?!」
叱られてしゅんとしていた少女がぎょっと顔をあげれば、その先には悪戯なザギヴの笑顔があった。
「ベルゼーヴァさ…の顔ったらなかったわ。困るでしょうね、あんな事を言われたら」
ザギヴとて、かつては上官であった彼を様づけする習慣がまだ抜けきっていないようだ。
少女の顔が一瞬曇り、そして険しく眉があげられている。
ネメアの意図はわかったものの、少女にはそのやり方が必ずしも正しいとは思えなかった。
結果として破壊神の復活は阻止されたものの、どんな目的であれ戦火はわだかまりを遺すものだ。
「だからこそ今そのわだかまりを解く努力が必要なの。それまでは私たちの戦いは終わらないのよ」
わかってる、と少女は大人しく頷いた。
「もちろん、手伝うよ。ザギヴの為ならなんでもする」
ディンガルのため、とならないところがザギヴそのものに傾倒している少女らしいところだ。
女帝自身もザギヴ個人としてその言葉を受けているのか、嬉しげな笑みで頷いた。
「…ありがとう。では、ロストールに行く前にもう一つ頼みたいのだけれど」
差し出したのは先ほど記し終わったばかりの書類だった。
それを封筒に畳みいれ、蝋で手早く栓をする。
少女もその様子はかつてのザギヴの執務室で何度も目にしていた光景だった。
「ロストールに行く前に、ドワーフ王国に寄ってジンガ王に渡して下さい」
手渡された封筒をしばし裏表に眺めてみるが中身が見えるわけでもない。
「…わかった。確かに、渡してくるよ」
「手間をかけるけど、お願いするわね」
封筒と書簡を手にまじめぶった顔つきで再び最敬礼の姿勢をとる少女。
「では、行って参ります陛下!」
小さく頷くザギヴを背に、部屋を出ようとする直前で声が掛かる。
「…どうか気をつけて」
振り向く少女の栗色の髪がふわりと揺れた。
かつてはその色がギルド内の呼び名についていたこともある栗色の下で彼女は微笑んでいた。
任せろ、とでもいいたげに目を細めて。
「傭兵を連れて行っても構わないわよ。報酬はこちらで用意するから」
つまりそれはかつての冒険仲間を連れて行ってもよい、という事を意味している。
「まあそう言うわけで今お金に困っていそうな君たちを特に選んで招待したわけだけど」
非常に失礼な物言いで、場に集まった彼らを見回している少女の姿は
先ほどまでの軍服とうって変わって冒険者時代の軽装鎧に包まれている。
そして彼らが集っているのはエンシャントの酒場の一角であった。
「前々から思ってたが本当にお前、失礼な奴だよな…」
しらふなのにご機嫌で駄洒落を飛ばしていたヴァンは今や怒りに顔を染めている。
無理も無い事だった。まあまあ、とそれをナッジが宥めるのもいつもの光景である。
「私の家…超裕福だからぁ…別に困っていないんですけどぉ…」
その割にはアミラルの宿屋住み込みから脱出できず困っていたユーリスが特製パフェをスプーンのさきでつついていた。
「でもまたアカデミー追い出されたんでしょ?」
ユーリスがうっと言葉をつまらせるのもまたかつての風景だったりする。
彼女がまたアカデミーを爆破してしまい賠償金を請求されていることは少女の耳にも届いていた。
「…別に無理に来てってわけじゃないんだ。割と危険だからねこの道中」
先の戦火のお陰でディンガルに遺恨を抱いている人々は必ずしも少なくない。
特に甚大な人的被害を受けたロストールに、ディンガルの代表として向かうのだから
どんな襲撃を受けるかわからない状況だった。
「…良いよ。君には色々助けてもらったもの。
ディンガルとロストールが仲良くなるのはいい事だと思うし」
あっさりと頷いたナッジは以前よりずっと落ち着きを取り戻しているように見えた。
「…ナッジがそう言うなら俺も別に構わないけどよぉ…」
不承不承ながらヴァンもその隣で頷いている。
旅がやみつきになったらしい彼は相変わらず宿屋も継がずテラネ周辺をうろついている毎日らしい。
「じゃ、決まりだね。まずドワーフ王国へ寄ってからロストールへ向かう。
出発は明朝。よろしく頼むよ」
立ち上がってさっさと酒場を後にしようとする3人をスプーンを手にしたままユーリスが慌てて追いかけていく。
「待ってくださいよぉー。わたしも、わたしも連れてってぇーーー」
「………すまんが、この頼みは受けられんな」
特使として参上した少女の目の前で封書を読み終えたジンガが重々しくつぶやいた。
どうして、と問いたげに視線だけ向けるものの、
言葉にできないのはドワーフの王の風格にさすがの彼女も押されているからなのだろう。
「確かに、落ち武者狩りの捕縛には協力はしたが、
それはわしの王国内での無法行為を阻止するためでもあったからじゃ。
しかしながらお主等が求める会談とやらは結果によっては戦争に再び繋がる怖れがないとは言えん。
わしらはギアの鋳造を請け負う永世中立の国でもある。
その立場をご理解いただけるよう、皇帝にお伝え願いたい」
穏やかながらきっぱりとした断りの言葉を受けては、少女も頭を垂れて引き下がるしかなかった。
「…つまり、ドワーフ王国を和平条約締結のための会談場所にしたかった、ってこと?」
ザギヴからはっきりと伝えられては居なかったけれど、ジンガの返答で手紙の内容は十分に推測することが出来た。
ナッジの問いに少女が重く頷く。
「戦争調停や和平を結ぶ会談っていうのは昔から中立国で行うのが通例らしいんだ」
しかし第一次ロストール攻略でアンギルダンが敗走した際、
ドワーフ王国を通って逃走したことで大量の落ち武者狩りが発生、
そのお陰でドワーフ王国の治安が一気に悪化してしまった時期がある。
戦争不関与が王国の古来からの掟だっただけに、ジンガにも国内から非難が集まっていたらしい。
「…ジンガとしても断らざるを得なかったんじゃないかな。まあ、仕方がない。
とりあえずはロストールへ行こう」
ロストールの門をくぐるのも、少女にとっては久しぶりの事だった。
ディンガルに与してからというものはや1年近くが経つ。
成り行きからノーブル伯などという身分さえ持っていたことを思い出し思わず苦笑が漏れる。
賞金首の一つぐらいかかっていてもおかしくない、と覚悟を決めて向かったものの、
門番はおろか通行人ですら彼ら一向に注意を払おうとはしなかった。
戦争に続いてリューガ家による政変で国内が一変してしまった現実は大きいようだった。
そんななか、遠慮なしの大声で声をかけてくる男が一人。
「これはこれはノーブル伯ののぞむ様じゃないか。ロストールを見捨てたはずのお前さんが
おそろいで何の用だい?」
そんな冗談を真顔で言える人間は一人しか居ない。
「…別に見捨てたわけじゃ…」
冗談とは判ってはいながらつい口を尖らせてしまうのは少女自体に負い目も確かに有るのだ。
「冗談だよ、冗談。何れにしろここはまだお前さんにとっては安全な場所じゃないぜ」
「判ってるならそんな大きな声で喋らない方がいいと思いますけど!ゼネテスさん!」
さらに負けない大声でユーリスが喚いている。
「わーった、わーった…。まあここで立ち話もなんだしな。何時もの場所に行こうや」
一行がゼネテスに案内されたのはスラムの酒場だった。
確かにスラムならば政権が変わろうが戦争がおころうが、その貧しさも治安の悪さも代わり映えしない場所ではある。
「…つまりディンガル側としては和平を望んでいるわけか」
ビールを片手にする話でもないのだが、ゼネテスにかかればそんな事はおかまいなしらしい。
レムオンは政変のおかげで政局の表どころかロストール国内からも姿を消すことを余儀なくされているし、
ふらふらしているように見えてもこのゼネテスが
ロストール政府のイニシアティヴの一部を握る人間として考えてもいいだろう。
「…だから、この書簡をティアナに渡しに来たんだ」
「なるほどな…」
剣狼とよばれたロストールの名将は今場末の酒場で耳を掻いている。
「しかし理由はあれど侵略してきたのはそっちだからな。はいそうですか、という訳には行かないと思うぜ」
少女も予想していた正論が返ってくるのは仕方もないことだろう。
かくいうゼネテス自身将として死の危険をかいくぐりながら2度の防衛を余儀なくさせられたのだ。
「何かしらの条件がいると…?」
「ま、領土には損害がないが人的被害が相当出たわけだし、
ケジメを示してもらわんとやっこサンも納得しないだろうって話さ」
「ケジメ…」
「関係のない他人の家でごめんなさい、っていうのもおかしな話だろ?
皇帝自らこの地に足を運ぶぐらいの覚悟がないと事はうまく運ばないだろう」
もちろん、難しい話だった。つまり一国の皇帝が首を狙われるのを覚悟で頭を下げにこい、と彼は言うのだ。
ザギヴ自身はそういったプライドに拘るようなタイプではないが周囲の猛反対にあう事が当然予想された。
「政治って難しいもんなんだね…」
ぽつりとナッジが呟いたことで会話が途切れる。
「ゼネテスだって、ザギヴだって一緒に闘った仲間なのに…」
ある意味ナッジらしい言葉に微笑みながらゼネテスが何時もの調子で彼の肩を叩いている。
「それが立場、ってもんなのさ。人の立場は往々にして変わるもんだ。
だから戦争も起こる。内戦だって起こる。それはお互いの立場を理解しないからだ。…わかるか?」
わかるような、わからないような。曖昧な面持ちでナッジが頷く。
「ま、かくいう俺だって好きで貴族でいるわけじゃねえ。
一緒に闘った戦友とこんな話をしなきゃならんのは辛いんだ。しかし人には帰る場所がある。守らねばならんものもな。
なあ、ヴァン公?」
「貴族の帰属ってなあ。だははははははは!ププッ。」
どうやら今までの話が全く理解できなかったようで、一人勝手に酒を注文してしこたま飲んで居たようだ。
顔も真っ赤にしてお得意の駄洒落をかましご機嫌である。確か彼はまだ未成年だったはずだが…
「ま、今日はゆっくり休むこった。明日ティアナに会えるように手配して置こう」
翌日、少女はゼネテス配下の護衛兵に護られながらロストールの王宮に招かれた。
ディンガルの制服を着てくるように指示したのは他ならぬゼネテスだ。
ディンガル代表での訪問なのだからそれも当然の話なのだが、
それだけに黒衣の軍服はロストール王宮内でも一際目を引いた。
ノーブル伯としての彼女を知るものも少なくは無かっただけに、
向けられる視線は決して優しいものではない。
携える書簡の手ごたえだけを心の支えに、謁見の間に控える女王ティアナの前に進み出る。
型どおりの挨拶の言葉と、かつて身に付けたロストール式の辞儀をすませると
申し付けられた通りの内容を儀式のように言上する。
「用件はわかりました。書簡は確かに受け取りました」
いつかは少女の前で震え涙したあのティアナが、何時の間にか女王の風格を身に付けているのに驚かされる。
そしてティアナが穏やかな調子で言葉を紡ぐ。
「久方ぶりですね、のぞむ様。すっかり見違えましたわ」
それもそうだろう。今やディンガルの軍服に身をつつんでいるのだから。
返す言葉もないまま少女が頭を垂れる。
ここは女王様もご機嫌麗しく。そんな言葉でも返すべきなのだろうが、
今の互いの立場を考えればあまりにも白々しく過ぎた。
立場の違い。昨日のゼネテスの言葉が少女の脳裏に苦々しく浮かんだ。
「のぞむ様。いつぞや貴女が王宮前で敵の手からわたくしを助けてくださった事。
一時も忘れた事はありません」
は、っと顔を上げる少女の視線の向こうにはティアナの華のような笑顔がある。
「では、使者の方。どうかディンガル皇帝陛下に斯くお伝えください。
和平はもとより我々の望む所。わたくし共はいつでも陛下を歓迎いたします。
―ロストールの地でお待ち申しております、と…」
ゼネテスの予言したとおりの言葉を耳にしてはさすがの少女も顔色を変えた。
雌狐の子、とは言えティアナが罠を用いるような人間ではない事は少女自身が良く知っていた。
かつて自分を慕うように歓迎してくれたティアナ…
あの言葉や振る舞いの端々は未だ少女の記憶に新しいまま残っている。
しかし彼女の周囲、となればそうはいくまい。
「ご心配には及びません。ロストールの誇りをかけて陛下の安全は保証させていただきますわ。
ディンガルの牙をなおも怖れるわたくし共であるがゆえに」
さすが、というべきだろうか。刺すような一言を交えるのをティアナは忘れなかった。
確かにディンガルはなおロストールを食むに十分な軍事力を有している。
ザギヴはおろかいまここに居る少女の身になにかあればディンガルが再び牙を剥く十分な理由になるだろう。
言葉を受けた少女の思いを察したのかティアナの眼差しが悲しげにゆらいだ。
本意ではあるまい。言いたくは無い事を言わねばならぬのが今の彼女の立場。
かろうじて交わす目線だけでそれを互いに確認するしかない。
書記官が記したティアナの言葉が書簡として少女に手渡されるのが退場の合図でもあった。
少女はディンガル使者としての態度を崩さぬまま、書簡を手に謁見の間を辞していった。
残されたのは周囲にも聞き取れぬかすかなティアナの呟き、そしてため息。
「お母様…。わたくし、これで良かったのでしょうか…?」
王宮前では案じ顔のナッジやヴァンが少女の帰りを待っていた。
そしてその隣にはゼネテスがにやにやと佇んでいる。
「よう、どうだったい」
知っているくせに。そんな思いでゼネテスを睨み返す少女。
「とりあえず今日にもエンシャントに発とうと思う。知らせを待っているだろうし」
「ふ…忠義なことだな。…次に逢う時はロストールの刺客になっているかも知れないぜ?」
まさにぎょ、っとした様子でナッジがゼネテスから身を離すが、もちろん彼は気にする様子もない。
「私はザギヴの騎士だ」
動揺もせず剣の柄に手を沿えてゼネテスを見据える少女の低い言葉にためらいはない。
「ザギヴを害する者があれば誰であろうと斬る」
流石のヴァンもこれには驚いたらしくナッジに身を寄せるようにしてゼネテスと少女を生唾を飲んで見遣っている。
その緊張を破ったのはゼネテスの大音声の笑い声だった。
「わははははは、立派な侍ぶりじゃないか。安心しろ。
別嬪に手はだしはしても手にかける趣味は少なくとも俺にはないよ。
ザギヴによろしく伝えてくれないか。色男のゼネテスが美しき姫君に会いたがっていたと」
「エンシャントまで覚えていたらね」
踵を返して歩き始める少女の後ろからおずおずと着いていく2名は
彼らの関係性をいまいち理解できずに居るようだ。
そしてその向こうには遠く買い物荷物を沢山抱えたユーリスの姿もみえた。
「あれえ?のぞむさん達どこいってたんですかぁ?え?もう帰るの?エンシャントに?
ちょ、ちょっとまってくださーい!置いていかないでぇー」
「――そう。ロストールに赴け、とそう言うのね」
書簡を開くまでもなく、少女の報告で静かにザギヴは納得したようだった。
「危険すぎますな」
玉座の傍に辞していたとんがり頭がいつもの表情を崩さぬまま意見を申し述べる。
「そうね。罠の可能性は十分あり得るわね」
私を葬りたい理由はいくらでもあるでしょうし。
自嘲を交えるでもなく淡々とザギヴも自らの所見を口にする。
「やはり、ジンガに仲裁を頼むべきなのでは…?」
「いいえ、これ以上他所の国を巻き込むわけには行かないわ。
準備が整い次第ロストールに向かいます。日程を調整するよう再び使者を差し向けて頂戴。
のぞむ。ご苦労だったわね」
「陛下!」
声を荒げるベルゼーヴァにザギヴが意味ありげな視線を投げるのを少女は複雑な面持ちで眺めていた。
「留守は貴方にお願いします、ベルゼーヴァ卿。…万が一の時のためにも」
今や第二継承権を持つディンガルの血筋にそう声をかけると、ザギヴは自室へともどっていってしまった。
「…まったく。陛下は私を野望の傀儡かなにかのようにお考えのようだな」
相変わらず淡々とした口調ながら彼は彼なりに歎いているらしい。
「そうじゃないの?」
少女が遠慮なく、かつ敵意をむきだしにして横目で問い掛ける。
「ふ。私に野望があるとすればただ一つ、それは人類が革新を果たす事だけだ。
それはディンガルという国レベルに留まるようなものではないのだよ」
はあ。
よくわからない生返事を返すのが少女には精一杯だった。
少女がザギヴの自室に向かうと、執務机の椅子ではなくソファに半ば横たわるように腰掛ける彼女が目に入ってきた。
皇帝になってもディンガルの制服を脱ごうとしないその姿も、
そうして腰をかけているのを見れば若干の艶かしささえ感じられるようだ。
その眩しさに瞬きをせわしく重ねながら入り口で佇む少女。
「こっちにいらっしゃい」
どうしたのか、と言った風に少女を見遣り片手で手招きする。
勧められるままおずおすと対面のソファに遠慮がちに腰をかけるとザギヴが自ずから紅茶を注いで彼女に差し出す。
こうしてみるといつぞやに旅を共にした頃と何ら変わりのない二人に見える。
何時までも黙ってザギヴを見つめている少女に
「どうしたの。いつもの貴女らしくないわ。…疲れてしまった?」
そんなことはない、と慌てて少女は首を振った。彼女は彼女なりに色々考える事があるのだろう。
ティアナのことを話すべきかどうか。少女はただそれだけを迷っているのだった。
「大変な役目を背負わせてしまったわね。感謝して居るわ。今度は私も一緒だから」
「…いいの?ザギヴ。ベルゼーヴァも言っていたけれど私も危険だと思う」
「…そうね。でも、守ってくれるのでしょう?」
ザギヴ自身も相当の魔法の使い手である。その自信もあってのことなのだろう。
少女の隣へと席を移すと不安げな顔を覗き込んだ。
崇敬して止まない対象が隣へと来た事で少女の頬には隠しようのない朱がたちどころに浮かんだ。
「第一、旅をしていた頃は危険なんて日常茶飯事だったじゃない?今度もきっと大丈夫よ」
いつか貴女が言った言葉よ、そう言ってザギヴは微笑んだ。
そう、かつてそう言ってザギヴを励ましつづけたのは少女自身だった。
「…守るよ、何があっても」
安堵したように笑みを深めるザギヴに少女はそっと額を寄せた。
皇帝になってからというもの、ザギヴは本当によく微笑うようになった。
それが少女にはなにより、嬉しかった。
この微笑みを崩す者は誰であろうと容赦はすまい。
「あてにしているわ…私のナイト様」
ロストール側との交渉の結果、和平会議はその2週間後開かれることと相成った。
場所は勿論ロストール国内。会議には唯一戦火を免れたエルズの風の巫女エアが立ち会うことになっている。
規模から行っても先のロストール戦以来の外交的案件に両国の緊張は否応なく高まった。
…とはいえそれは政治レベルの話であり、エンシャントの街もロストールの街も共にゆるやかな復興にむけて余念がない。
カルラからの報告によればロセン・リベルダム方面では半ば賊化した解放軍による襲撃事件が多発しつつあるようだが、
その彼らもロストール地方までは足が及ばないらしく
少女を護衛に据えた皇帝一行は何事もなくロストールに到着する事が出来た。街
に着く手前で出迎えたのは今やロストールの筆頭将軍であるゼネテスその人だった。
「皇帝陛下に置かれましてはご機嫌麗しゅう。不肖ロストール竜字将軍ゼネテス・ファーロス。
女王の命により陛下をお迎えに参じました」
恭しく身を屈める男は、かつてザギヴとも肩を並べて戦ったこともあるわけだが、
ザギヴも今は皇帝らしく鷹揚に頷いて他人行儀な儀礼を受ける形となっている。
ロストール市街に入ると通りには市民が遠巻きにゼネテスとディンガル皇帝一行の姿を眺めている。
英雄ゼネテスが先頭に立ちにらみを聞かせているせいもあるだろう、
様々な視線の色はあるにせよ、反応は実に静かなものだった。
それでもやはり未だ敵国である場所を歩くザギヴの緊張の色は隠せない。
それを覆うように、今回は一部隊を設えて従ってきたディンガルの近衛部隊の黒の鎧が取り囲んでいた。
その隊長たる少女はザギヴに寄り添い剣の柄に手を添えたまま油断なく歩を進めている。
会談の場所はある貴族の邸宅を明渡した場所で行われる事になった。
同時にそこは皇帝一行の滞在先ともなる。
王宮内ではなく貴族とはいえ一応は民間人の屋敷をあてがったのはさすがに
ディンガル側の情を慮ったということなのだろう。
実際にその屋敷は居室だけでも20は下らない大規模なものであったし、
一兵卒に至るまで国賓として申し分のないもてなしも受けることとなった。
「随分と大きな屋敷ね…。ロストールの貴族というのはここまで富裕なものなの?」
自身皇族であるザギヴでさえその華美、豪華さに目を見張っている。
質実剛健を旨とし、たとえ貴族であろうと実力がなければ没落を余儀なくされるディンガルでは
想像し辛い面もあるのだろう。かつてノーブル伯だった少女に自然と視線が向く。
「私は出来合いの伯爵だったから良く判らないけど…
確かにリューガ家の邸宅は大きかったよ。貴族によって税の賦課率がばらばらだったから
こんな大きな邸宅を建てられる貴族もいた、ってことなんだと思う」
少女の言うように領土によって税の重さが違ったことで、ノーブルの乱は起こったようなものだった。
レムオンのような貴族筆頭を謳われた者ですらポルボラのような官吏に任せきりであった事実からして
いかにロストールの荘園管理体制がずさんであったかが判る。
しかしザギヴはあえてそれを口にはせずに置いた。
どんな大義名分があろうともロストールを攻める口実にはなるまい。
ただ、ロストールが今も抱える軋みを目の当たりにして複雑な思いに沈んでしまうだけだ。
ディンガルの2度にわたる侵攻とリューガの変事。立て続けに起こってよく国として倒れなかったものだ。
屋敷の一際大きな広間は、パーティーのために作られたものなのだろう。
神聖王国時代の様式で整えられた内装は白亜の幾本もの柱で支えられ、
その一つ一つには天使や神々の細密な彫刻がうがたれ、光を放っている。
大理石を張られチリ一つない床はそのまま天井に描かれた壁画を鏡のように映し出す。
和平会議の会場としてはおあつらえ向き以上、であると言えよう。
さすがのザギヴや兵士達も呆れたようにその室内を見渡していた。
ここまで豪華な部屋はディンガル政庁にすら存在しない。
ティアナ曰く、王宮の内部もここまでの内装のものはない、と苦笑いをもって語った。
「ロストールの歪みの象徴ですわ…お恥ずかしい話です」
ロストール復興団時代はティアナ自身が難民や市民達の悲惨な現状を目の当たりにした事もあるのだろう。
過ぎにし時代の遺産を隠すこともなく恥じていた。
「歪みは正されねばなりません。だからこそ私たちは此処に参じたのです」
ザギヴの返した静かな言葉によって会談は開始されたようであった。
卓の左右を挟んで対面するティアナとザギヴ。今のところ両者にこれといった感情はよみとることができない。
ただ其処には共に君主たる威厳が伴っていて、席に着くものが多数居るにもかかわらず室内は張り詰めたように静まり返っていた。
「…というわけで、ディンガル帝国としてもロストール王国と和平を結びたいのです。
無論只で受け入れて欲しいとは申しません…ロストールへの復興支援、難民を受け入れる準備もありますわ」
「いいえ。当方としては今後一切の侵略行為を断つことを確約していただければ
特段求めるものはございません」
ティアナのきっぱりとした口調に流石にザギヴもたじろいでいる様子が見て取れた。
刃のようなやり取りではあったが、
やはり侵略者側の負い目はザギヴをしても多少の気後れを感じさせてしまうものなのだろう。
あるいはそこに新任皇帝の弱点もあるのかもしれない。
けれど少女はザギヴのそんな所さえ愛らしい、としみじみ思う。
皇帝として成長する反面、いつまでもザギヴ個人らしくあってほしいという複雑な思い。
「…それは、無論の事です。ディンガル帝国は向後一切、貴国に侵略行為を行わない事を宣誓いたします。
戦神ソリアス…天空神ノトゥーンの名において」
胸に手を添えるザギヴの誓いに安堵をもって頷いたティアナの口調が若干和らいだようだ。
「確かに助けをいただくのはありがたいことなのですが…
ロストールの難事はロストール自身で 乗り越えてこそ意義があり、そこに未来もあると思うのです…」
いかにも、と深く頷くザギヴの面持ちをうかがう様子でティアナの声が多少低まる。
「…ただもし…もしロストールを助けてくださるとおっしゃるのなら、
一つだけお願いを申し上げてもよろしいでしょうか?」
「なんなりと」
迷いなく即答したザギヴに向かうティアナに僅かながら笑みが浮かんだ。
「…では、そこにいらっしゃるのぞむ様を、わが国の将軍職としてお迎えさせていただけますか?」
場に座していた一同が思わず息を飲んだ。
離れて座していた指名の少女の顔もこわばっている。
何よりティアナと対峙していたザギヴの顔色が失われているのがはっきりと見て取れる。
両陣の席からざわめきが立ち上った。一方立会いを任されたエアといえば澄まし顔で微動だにしない。
会談の結果を予見しているわけでもあるまいが…
それぞれの反応を予測していたのかそうでないのか、ティアナはなおも怯まず凛と張られた言葉を続けた。
「当方にはゼネテスという有能な将軍がおりますが…彼だけではやはり十分ではないのです。
わたくしたちは先の戦乱と国内の反乱で多くの人材を失ってしまいました。
そこでのぞむ様という人的支援を貴女にお願いしたいのです」
ディンガルではなく貴女に、とティアナはザギヴに語りかける。
ザギヴは俯き、同時に再び室内は返事を待つように静まり返った。
静寂を苦しげに搾り出されるザギヴの言葉が弱々しく破る。
「彼女は…のぞむはわが国にも必要な人材です……」
「そこを押して、どうか。…いけませんか?」
こんなに押しの強い人物だったか、と自らの身の振り方について語られているにもかかわらず
少女が驚きの眼差しを持ってティアナをまじまじと見つめる。
そしてその対面には彼女にとって誰よりも愛しい人が苦渋の面持ちを浮かべていた。
むろん少女はザギヴの傍を離れるつもりはない。
今ティアナの言葉を破りそう叫びたい衝動を少女はかろうじて抑えていた。
叫びたい。主張したいが出来ない。
なぜなら卓上で話し合われているのはあくまで少女の公人としての立場であり、
その立場さえザギヴの皇帝としての意思で左右できてしまうものであるから。
動かし難い事実に気づいた少女は改めて愕然とする。
私は、私は個人としていつまでもザギヴの傍に居たいのに……。
縋るような少女の視線に当然ザギヴも気づいていたに違いない。
それでもその横顔はなお皇帝として厳然とティアナをむいていた。
「彼女は…のぞむはあくまで自身の意思で私に仕えてくれています。
ゆえにそれ以上の要求は皇帝としても決定できるものではありません。
陛下ご自身が個人として交渉いただくべき事案かと存じます」
会談はザギヴのその言葉で一時中断することとなった。
二人きりにして欲しい、という皇帝と少女の強い申し出で
さほど広くはない一室に今テーブルを挟んで座っている。
白を基調とした壁が夕暮れ過ぎた窓を切り取るように白く浮かび上がり、
ザギヴの表情も負けず劣らずそれを映して白く透き通っていた。
「会議に出ない方が良かったのかな…」
まさか自身が交渉材料にされるとは。
言葉以上に少女は打ち沈んでいるようだった。
そこにはディンガルを離れねばならないかもしれぬ不安も見え隠れしている。
「そんな事はないわ。貴女が居ようが居まいが彼女はこの案件を持ち出していたに違いないから。
でも本当に予想外だった」
長い緊張状態と不意打ちの提案のせいかザギヴのため息にも疲労の色が濃い。
「私、ロストールに行ったほうがいいと思う…?」
不安げに呟き眺める窓には蝋燭の光が頼りなく揺れて映っていた。
「本気で言っているの、貴女」
強まった語気に少女が振り向くと眉を上げねめつけるようなザギヴと目が合う。
「…ッ!そんなわけないじゃない!」
堪えに堪えていたものがついに切れたとでもいうような叫びとともに少女はザギヴに抱きついた。
「離れたくない…!ずっとザギヴの傍に居たい……」
だから騎士にさえなったのに。
甘えるように頬を寄せザギヴの耳元で泣き声を発する少女の髪を撫でて宥める
ザギヴの眼差しは険しいものから愛でる相手へのそれへと変じていた。
「…貴女を奪おうというのなら、私はロストールを滅ぼすわ」
眼差しは穏やかながら低まった声は十分に迫力を感じさせるものであった。
ザギヴはすでにディンガル皇帝としての牙を備えている……
少女が思わず驚いて顔を上げたところで僅かにザギヴに苦笑が浮かんだ。
「例えば、の話よ。安心なさい。私は貴女を手放すつもりはないわ、何があろうとも」
「ザギヴ…」
ゆらゆらと揺れる蝋燭の火は、重なった二つの影を映している。
「ザギヴ陛下、ティアナ女王陛下が御自らお二人きりでお話をされたいと申しております」
ザギヴが割り当てられた自室に戻って間もなく、ティアナからの伝言を携えた使者がその扉をノックした。
無論ドア周りを固めていた兵士を通してのことである。
「…会談とはまた別のお話、なのですか?」
「はい。陛下個人でお話をされたいと。お許しが出ればこちらへうかがうとのことですが…」
返事を待ってうかがう視線の使者の前でしばし黙考した後、ザギヴが短く告げる。
「了解しました。お待ち申し上げているとティアナ陛下にお伝えください」
使者は会談の続きが明日に決定した事も告げて戻って行った。
その後姿が遠ざかるのを待たず兵士が緊迫した面持ちで彼の皇帝へと近寄る。
「…よろしいのですか…?」
「彼女一人でどうこうできるとも思えない。ただ警備人員は確保しておきなさい」
「ではさっそく隊長殿の…」
「彼女には伝えなくても良い。大事にすることもないわ」
しかし、となおも食い下がる兵士を手で制し、ザギヴは再び部屋へと姿を消した。
ティアナが2名の竜騎士に護られながらザギヴの部屋の前に姿をあらわしたのは夜半も近くなってからのことだった。
「ザギヴ陛下、夜分遅くお休みのところ申し訳ありません」
「どうぞ。お入りになって」
ティアナ自身がノックをし、ザギヴも公人としては柔らかい調子でそれに答える。
警護の兵士を此処で待つように、と手で制し部屋の中へと入っていくティアナのこちら側では、
否応なくディンガル兵士とロストール竜騎士がにらみ合う形となった。
勿論視線で敵意を牽制しあうだけで何も手出しはできないのは互いに知りながらのことだ。
そして扉の向こうではそんな緊迫状態とは無縁のおだやかな月光が蝋燭の光とあわせて部屋の中を満たしていた。
「おくつろぎいただけておりますか…?」
「ええ。落ち着けるお部屋にしていただいてありがたく思っています」
確かにその部屋はシンプルかつ機能重視に整えられた内装だった。
華美に過ぎる他の部屋に比べ、といった感想が暗に含まれてしまったのは国王を前にして
おそらくザギヴの他意ではなかったろう。
「ふふ…。それでも随分無用の装飾品を運び出させましたのよ」
確かに良く見れば壁のあたりに何かをとりはずしたような日焼けのあとが僅かにうかがえる。
思った以上に急ごしらえの会場設置だったのだろう。
苦笑を隠しながらティアナに席を勧め、その対面に背筋を伸ばして腰をおろしたザギヴが静かに尋ねる。
「…で。ご用向きは?」
社交辞令の笑みから替わった面持ちにはいつしかそれとない緊張と警戒が滲み始めている。
今度はティアナが苦笑を見せる番だった。
「どうか、そのように警戒なさらないで下さい…。
わたくしはお会いしてみたかったのです。ザギヴ様とおっしゃる方と、個人的に」
「…個人的に……?」
扉口の向こうから小さく揉めるような会話が小さく届いてくる。
しばしのやりとりのあと、ロストール王宮付きと思われる給仕の女性が
兵士へと怯えた眼差しを送りながら部屋へと入ってきた。
「陛下、お茶をお持ちいたしました」
「…ありがとう」
事前に申し付けてあったのだろうティアナ自身が立ち上がり銀の盆を受け取った。
「…あの、よろしいのですか?」
「ええ。あとはわたくしがやりますから。下がってくれて良いわ」
給仕とティアナの穏やかなやり取りを不思議なものでも見るように眺めるザギヴ。
そんな視線をもなんでもないように受けながらティアナが盆をサイドテーブルに置いてお茶の支度をしはじめた。
「ザギヴ様は紅茶がよろしいかしら?それともコーヒー?」
まるで友をもてなすようなはずんだ調子で傍らのディンガル皇帝に語りかけている。
「…そのようなことを、自らなさらなくても…」
「ご心配ですか?」
図星を吐かれて思わず口を閉ざすザギヴ。同時にはっきりとした焦りの色が彼女の表に浮かんでいる。
会談といい、どうにもティアナのペースで事が進みすぎているのが気になっていた。
「…それではこういたしましょうか。わたくしと同じ器でお茶をいただくというのは?」
「いいえ、結構よ。そこまでしていただかなくとも」
扉を閉じるように言葉を投げてきたザギヴに、ティアナは何かを返そうとしたが、
再び笑みにそれを途ぎれさせて、
「では紅茶にいたしますわね」
ザギヴはただ頷き、窓の外を眺めた。
無意識に親指の先を噛んでいるのは焦りと苛立ちゆえであったが本人は気づかぬままであったろう。
「お気に障ってしまいましたか…?」
「…?」
ティアナの口調にはっきりとした翳りを読み取って思わずザギヴが彼女の方を見た。
ティーポットからカップへと紅茶をそそぎながら言葉を紡ぐその表情は影になってみてとれない。
「…ロストールの雌狐、の噂は貴女もご存知でしょう?リューガの変で処刑された王妃エリスの事を」
「………ええ」
なんと返したものか。そんな躊躇と警戒が思わず短い応答にも浮かんでしまって
誤魔化すようにもらされたザギヴの咳払いが小さく室内へと響く。
短期間でロストール以南の地やリベルダムまで傘下に納めたという突出した権謀術数の女傑はもちろん、
侮るべからざる人物としてディンガル国内でもつとに伝わっていた。
「私はその娘なんです。…おかげで何を語るにも何か裏があるのではないかと事あるごとに
疑われてしまう…。親愛の情でさえも…」
ティーカップをザギヴの前に差し出して、その瞳をじっと見つめる。
思わず視線をまともに交わしてしまったザギヴにも、その青い瞳の底に揺らぐ深い色が見て取れた。
「だから、貴女とは直接お話したかったのです。雌狐の名を継ぐロストール女王としてではなく
ロストールという国を思うティアナ、という一人の人間として」
ここに至り、ディンガル皇帝は何故自分が斯くティアナに対し後れを取りつづけていたのか気づくことになった。
ティアナがひたすらに示していたのは信じて欲しい、という一念だった。
当然そこに迷いは無い。
それに引き換えザギヴを筆頭にディンガル一行が携えてきたのは、
和平締結を隠れ蓑にした不安や疑念、警戒といったネガティヴなものばかりだった。
和平を締結すべき、と判断した事自体、政情を安定させて復興の速度を速める目的もあった。
そしてそれら全てをこの、まだ少女と呼ぶに相応しいティアナに見抜かれていた。
それが侵略した側とされた側の違いなのか、とザギヴは思う。
「…貴女は聡明なひとね。確かにこうしてお会いしなければわからなかったかも知れない」
ザギヴ、という個人がカップを取り上げ紅茶を口を湿らせてから静かにそう返した。
その意味合いを察してか、ティアナの頬にも漸く、作り物ではない笑みが浮かんだのだった。
「…けれど、事あるごとにゼネテス様には叱られます。
わたくしはすぐ探り試すような物言いを するきらいがあると」
なるほど、とザギヴは思い至る。
彼女自身が茶を立てるのを目の当たりにして感じた当惑は
毒を入れられるかもしれないという疑惑よりも、
それを疑がっているかどうかを試しにかかったティアナの言動に対する不快だったのだ。
そしてザギヴはそれを察して苛立ちを覚えた。
「母上から受け継いだ、欠点ですわね…」
「国を統べるためには人を操る技能も必要になってくる。欠点ではなく資質と考えるべきよ」
今までに官僚として中枢において関わってきた人物を数々思い浮かべながらザギヴが語る。
尤もその資質が往々にして欠点となりそこからほころびた例も多々あるのだけれど、
新米皇帝である自分が新米女王であるティアナに今それを言うには及ぶまい…
それになにより先ほどの言葉どおり彼女は聡明で、信念も持っている。
そしておそらくは、その母エリスも…
「けれど、親しく思う方にまでそう感じさせてしまうのが悲しくて…」
少しばかり打ち解けてきたザギヴの態度のせいか、ティアナも女王然とした口調から、
王女、あるいは一女性としてのものに戻っていた。
「貴女はプライベートでも公人として振舞ってしまっている。
君主にプライベートなど無いというけれど私はそうは思わない。
民衆あっての国ならば君主もまた人であるべきだもの。
たとえそこに悪意のある者が隙を見出すとしても、
貴女を君主と慕い守ってくれる臣民もまた人であるのだから」
真摯に聞き入るティアナの眼差しに応えるようにザギヴは親しみをもって微笑んだ。
「自分が居なければ国が動かない、という考えはお捨てなさい。
自分がいなくてもどうにか動いていけるのだろう、と考えれば
自分自身をどこから女王として切り分けるべきか、見えてくると思うわ。
…もっとも私とてまだまだ覚束ないのだけれど」
背もたれに身を預け楽しげに笑うザギヴを不思議そうにティアナは眺めている。
「ザギヴ様、貴女もそうお考えなのですか…?」
「ふ…できるものならいつでも皇帝の座など譲りたいぐらいよ。
私個人としてみれば厄介事専門の何でも屋でしかないわ、君主なんて」
君主らしからぬ例えでそう言いのけたザギヴの言葉についにティアナも鈴を転がすような声色で笑い出した。
「ふふふ…ザギヴ様もわたくしと同じように思われていたのね。なんだか嬉しいです。
…そして、安心しました」
「安心…?」
「ええ。のぞむ様が素敵な方に仕えられているのだとこうして確認できましたから」
「……貴女…」
「もちろん、ロストールが平和を望んでいることを直接お伝えしたかったのは本当です。
…けれど、あの…。のぞむ様があのように慕われる方がどんな方なのか、
お目にかかってみたかったのも、事実なのです……」
消え入るような声で言葉を紡ぐティアナは同時に、会談でのあの要求がティアナの私情に基づくものであると告げた。
「…まったく。罪作りなひとね」
しばし無言を貫いていたザギヴの前でうつむいていたティアナが顔を上げる。
黒髪の皇帝は椅子にもたれ窓の外の月を見ている。
「貴女にそこまでさせるなんて」
「あの方が悪いのではないのです、公私を混同したわたくしが……」
「言って置きますけれど」
睫毛を伏せているティアナに毅然とザギヴが振り向いた。
「あの子に将軍は無理だと思うわ」
そう言うなりザギヴはくつくつと身を揺らして笑い始めた。
「…ザギヴ様…?」
「聞いていない?かつてはアキュリュースの傭兵をし、アンギルダンの副将に与して
カルラ南下の際にはゼネテスを助けてディンガルを退けた無限のソウル様の冒険譚を?」
「……」
「良く言えば縛られない、悪く言えば拘りが無い。あの子は信念に従って動いているだけだけれど、
そういった自由すぎる人間は将軍職にはそもそも不向きなのよ」
「…そんな事はありません!!」
それまで保っていたティアナの王族らしいたおやかな物言いが鋭い反論で破られた。
頬を染め拳を握って立ち上がっている女王の姿をザギヴが目を丸くして見つめる。
「のぞむ様はおっしゃいました。自分はディンガルにもロストールにも属するつもりはない。
ただザギヴ様………貴女一人に仕えるつもりなのだと…。だから…」
火のようにティアナを突き動かした衝動はすぐさま消え去って、悄然と腰をかける。
「ティアナ。貴女、あの子の事を…」
「先ほど、ここへわたくしが参る少し前の事です。のぞむ様が王宮においでになりました。
そしてはっきりとご自身でわたくしの要求を退けられました」
悄然としながらも、ふい、と半ば自棄にも見える笑みを口の端に浮かべたティアナが言葉を続けた。
「だからなおの事貴女のお気持ちを確認させていただきたかった」
答えを待つような青い瞳が強い光を伴ってザギヴを捉えている。
「私は皇帝としてでなく…ザギヴ=ディンガル個人としてのぞむに傍にいて欲しい、と思っている。
…いえ、私自身が彼女の傍に居たいと願って居るわ」
様々に灯る想いの光を交わしながらザギヴとティアナが互いの瞳に視線を止めている。
その視線を先にふいとそらしたのはティアナの方だった。しかしその唇には笑みが浮かんでいる。
「わたくしもそう望んでおりました。のぞむ様がわたくしの傍でわたくしを支えてくださったら、と…
けれどもわたくしは貴女のようにのぞむ様を支える事は出来ない。漸くそう思い至りました」
そんなことは。思わずそう発しそうになるザギヴの言葉を手を制するティアナの面持ちには
もはや苦しいまでに切なげな色は浮かんではいなかった。
「本当は気づいていたのです。貴女方が世を救う戦いに赴いていたときに、
すでにわたくしたちの道は決していたのだと。
…だからわたくしも見つけますわ。
のぞむ様以上に素敵な騎士様を。そしてその騎士様を支えられるぐらいにわたくしも強くなってみせます」
微笑と、少しばかりの挑発的な眼差しをもってまっすぐザギヴをみつめるティアナ。
ザギヴもただそれを揺るがぬ眼差しで受けて黙って頷くのだった。
「…またわたくしとお話してくださいますわね?皇帝と女王ではなく…大事なお友達として」
辞する言葉を述べて立ち上がる際、ティアナがふわりとザギヴの手に手を重ねた。
驚きの眼差しで動きを止めるザギヴにもその体温が伝わるに従い温かな笑みが浮かんでくる。
「もちろんよ。貴女とは色々共有する事柄が多そうだもの」
何が、とは説明しない言葉に両者ともに声無き笑いを漏らし、
重ねられた手はそのまま握手へと転じた。
ティアナと連れ立ってザギヴが室外へ出ると、
そこにはずっと待機していた竜騎士2名、そしてディンガルの護衛兵2名、
さらに彼らを統率するべき騎士のぞむが案じ顔でたむろしていた。
どうやら異変を知り自ら馳せ参じたものらしい。
「ザギ……陛下!」
少女の大事な陛下といえば呼びかける声にちらと視線を向けただけで、
傍らのティアナに親しげに声をかけている。
「王宮まで送らせていただきますわ、陛下」
「…でも、わたくしが勝手に参ったのに…」
「そうさせて下さい。護衛兵。共にティアナ女王陛下をお守りし王宮まで参れ」
命じられたディンガル兵とて何が起こったのかわからぬようで、きょとんと目を丸くした。
「では、あなた方はザギヴ陛下をお守りしつつわたくしと共に王宮へ戻るのです」
そう命じられては竜騎士達も後に従わざるを得ない。
ディンガル・ロストール兵が互いに顔を見合わせている後ろからディンガル近衛兵隊長が情けない声をあげた。
「…あ、あの、私…は…?」
「貴殿、屋敷にて待機せよとの命を破り王宮へ単独で赴いたそうだが?」
立ち去りかけた背中越しに振り向いたザギヴがやや大仰にそう問い掛ける。
ぎょっと立ちすくむ少女に畳み掛けるように皇帝の叱咤が飛んだ。
「命令違反の罰として自室で謹慎し、明日までに用紙3枚の反省文を提出せよ」
なんでー!
冒険者の頃の野趣まるだしで叫ぶ少女には
してやったりと口角をあげるザギヴの表情は見えなかっただろう。
「……やはり、わたくしにはあのような真似は出来ませんわ」
ボソリとつぶやくティアナの言葉にも笑みを崩さぬまま、
ザギヴはわずかに眉をあげて見せただけだった。
翌日、ディンガルとロストールの和平は恙無く締結された。
以来長い年月の間両国にはそれまでにない友好関係が結ばれる事となる。
和平の会場となった貴族の屋敷はそのまま公収されることとなったが、
ディンガル皇帝一行が立ち去った翌日、
その一室には書き損じの反省文らしき用紙が何枚も散らばっていたという…。
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