私は今、絶賛迷子中である。

流石にかつては神聖王国の中心に置かれ
今なおディンガル帝国なる大国の首都として機能している古都エンシャントだ。
古い建物がそこかしこにあるせいか道の入り組み方が半端ではない。
…もっとも、古くからの町並みが残ると言われたこの界隈も
「エンシャント陥落」と呼ばれたあの歴史的事件であらかた破壊されてしまい、
まだ復興しきれていない箇所がその面影を残すだけとなっている。
それでも迷子になってしまうのは一重に私の絶望的な方向音痴ゆえであろう。
これだけ見通しがいいのに方向がわかんないとかどんだけ。と自分でも思う。
よく大陸中を旅できたものだ。皆さんのお陰です。
しかしその皆さんも自らが戻るべき場所に戻り、あるいは旅立っていった。
そして今や近衛騎士隊長としてちゃっかりディンガルに属している私は、
こうして巡回のルートを見失って戻る道を必死で探しているというわけなんである…。
いつのまにか相当奥まった箇所にまで入り込んでしまったようだ。
道を聞こうにも人がいない。犬が向こうですごい形相で吠えているが
噛み付きこそすれ案内してくれる風情でもなさそうだ。参った。
冒険者時代なら迷ったなら迷ったなりで散歩がてら探索を楽しんだものだけれど、
巡回報告をしなければならない今の立場ではそうも行かなかった。
政庁では陛下の視察ルートの事前調査を命じられた私の報告を待っている。
あのとんがり頭が聞いたならさぞかし鼻でせせら笑ったうえで
皮肉の一つや二つや三つや四つかましてくれるであろう。
それを思うとますますもってむかつく。

…やはり早めに戻らなければ。
足を速めると騎士の証である黒鎧がさらに肩にずしりと食い込んでくる。
かつての軽装がひどく懐かしく感じてしまう。
つーかこれ脱いだらだめですか。槍置いていったらいけませんか。
半泣きで焦る私の行く手を阻んだのは何度目かの袋小路であった。
流石の無限のソウル様でもこればかりはどうにもならないといったところだ。
むきーーーーーーーーーーー。
誰も居ないのをいい事に目の前の壁に蹴りをぶちこんでみた。
びくともせずにさらに私の気分を沈ませてくれると思ったその壁は、
予想に反して派手にがらがらと崩れ落ちた。
どうやらそれは壁ではなく瓦礫が積み重なっただけのようだった。

「………おー……」

思わず感嘆のため息が漏れ出していた。
瓦礫の向こうには、まるでそこが街中ではないような森を思わせる勢いで
青々と草木が繁った風景が広がっていたのだ。
まだこんな場所が皇都の中に残っていたなんて。よくぞあの大破壊を免れたものだ。
自らの境遇などすっかり忘れてしまって私は瓦礫の向こうに足を踏み込んだ。
相当永い間放置されていたようで、様々な雑草が生い茂ってまるで小さな林か森に迷い込んだ気分になる。
市街からさほど離れていないはずのこんな場所に、こんな空間があるなんて。
規模から言って相当広い敷地のようで、よくよく見回すと生い茂った木々と下草、
つる草が互いに絡み合った繁みに隠れるようにして破壊された石造りの家の残骸らしきものが目に入った。
大富豪が貴族の家だったのだろう。それならばこの広すぎる庭も納得がいく。
もはや今の私は不思議なその庭をあちらこちら興味の赴くまま歩き回る冒険者になっていた。

 …それにしても、例の大破壊以前にここまでひどく破壊されるなんて、一体何が起こったのだろう。
所々残る石の壁には黒くすすけたような跡も残る。徹底的に破壊された様子がうかがえる。
そんな一角に割合昔の形を残している場所を見つけた。多少ねじれてはいるがよほど頑丈に作られたもののようで、
丸いアーチが壁にはめ込まれたまま草のなかに突き立っていた。
扉は燃えつきてしまったようだけれど、どうやらそこが正面玄関、のようだ。

 「おじゃまします……」
かつての住人に断ってからそっと足を踏み入れた途端、
目の前に黒く長いものがぶらりと飛び出してきた!槍を放り出し反射的に剣の鯉口を切る。
こんなところにも魔物が……!?
―しかし剣に両断されて転がっていたのは魔物の死体などではなかった。

「…………へちまぁ?」
哀れ茎から切断されて瓦礫や埃だらけの床にころころと転がっていくのは、野生のへちま。
アーチに絡まったつるからぶら下がっていたらしい。
「…ったく、びびらせんなよ、もう…。」
立派な鎧を着込んだ私のこんな様を皆が見たらなんて言うことか。特にフェティとか。
あいつは意外と語彙が少ないのでド下等生物と言って嘲うだけかもしれないが。
森に帰れ。
勝手に想像しておきながら高慢ちきなエルフを脳内森へと追い返して探索を続けることにする。
凄まじい破壊が行われたようで、かろうじて屋内であるのはわかるのだが、
殆どがその形を止めていないようだった。そこはもはや草やつるたちの住まいと言っても良かった。
これほどのものがこれだけの期間放置されている、と言う事はもしかしたらこの場所は、
何か触れてはいけない忌まわしい何事かが起きた場所なのかもしれない。
思わず後じさりするけれど、緑一面に覆われた敷地は午後の日を浴びて穏やかに睡っているようにもみえる。
後ろに下がった途端なにかが爪先にあたり、転げる。さっきのへちまではないようだ。
…?
かがんで拾い上げてみると、それは何かの本であるようだった。
埃に塗れて装丁も題名も判読できなくなっているけれど、そこに住んでいた人の間違いない気配がそこにはあった。
埃を払い、開いてみる。野ざらしにされていたはずなのに繰って見るとページはあっさりと開く事が出来た。
目を落せば罫が引かれたその上に几帳面な手書の文字が並んでいる。…これは………

 11月3日
今日はお父様が帰っていらっしゃる日。
1週間振りなので朝から楽しみで仕方がない。
お母様も女中達に混じってお料理なさるのだ、と張り切っている。
お母様のケーキプディングはディンガル一だし、きっとそれも作ってくださるだろう。
こんな楽しい気分は久しぶりだ。庭のへちまもなんとなく元気がいいみたい。

  11月4日
お父様のご帰還が延期された、とのこと。
皇帝陛下からの急な召喚でお城に詰めているらしい
…何が起こったのかな。お母様の顔色がすぐれない。
さぞかしがっかりなさったことだろう。
そして心配なさっているはずだ。
最近はなんだか戦争も多いし、こんな事を書いてはいけないのだろうけれど、
皇帝陛下の評判もこのごろは悪いものばかりだから…。
お母様にそう言ったらひどく叱られてしまった。
あなたはいつか陛下につかえる身になるのだから、と。

でも、なんだか嫌だ。戦争ばかりするこの頃のディンガルは拭えない不安が漂っている気がする。
そんな事を考えてしまうのは、お父様がまだ帰らないから?
…戦神ソリアス様、どうかお父様が早く帰ってきますように。

 11月5日
お父様が帰っていらした。
お母様も邸の皆もほっと一安心。お疲れなのだろう、
顔色がよろしくないけれど私ももちろん大安心だ。
お父様が居るだけできっと全てが大丈夫。
だって私の自慢のお父様こそディンガルの血を引く国一番の大騎士様なんだもの。

 ―――これは、日記…。【ディンガル】の文字の下りでページを捲る手が止まる。
ディンガル貴族の手になるものなのだろうか。
…嫌な予感がする。なんだろうか、この胸騒ぎは。
それでも私は日記を繰る手を止める事が出来なかった。

 11月7日
へちまが枯れてしまった。
あんなに元気でお父様もお気に入りだったのに…。
ちゃんと水も肥料も与えていたのにどうしてだろう。
お母様やお庭番のナガルに聞いてみても首を振るばかり。
変わっている、と言われても私はあのへちまが好きだった。
へちまを片付けようとしたら、ナガルが止めた。
もしかしたら種が取れるかも知れないという。
そうね。枯れてしまったらまた育てればいいのだわ。

 11月10日
日記を書いていたら、早く寝なさいとお母様が部屋に入ってきた。
いつになく怖い顔をなさっている……
こんなお顔を見たのは初めてのことだ。
それでもこうしてこっそり月明かりに頼って書かずに居られないほど。
隣の部屋ではお父様とお母様が言い争う声が聞こえる。

嫌だわ、喧嘩なさるなんて。こんなことも今までに無かった事なのに……

 11月12日
お父様とお母様、仲直りなさったみたい。良かった。
あんなに仲の良かったお二人でもこんなこともあるのね。
明日は私の誕生日なので、今度こそケーキプディングを焼いてくださると
笑っておっしゃるお母様には何時もの笑顔が戻っている。嬉しいな。
戦時下の戒厳令中だからお友達は呼べないと言われたけれど問題ない。
お父様、お母様、そして邸の皆が居ればそれで十分よ。

誕生日で思い出した、とお母様が私の名前の由来を教えてくださった。
古代王国の言葉で、「希望」の意味らしい。
ザギヴなんて言いづらくて本当はあまり好きではなかったけど。
今はとてもお気に入り。ありがとう、お母様、お父様。

少女のものらしい日記はそこで潰えていた。
手が震え、日記を取り落としそうになる。
なんてことだ。
これは…これはあの人の日記じゃないか………

 日記に読み込むあまり背後の気配に全く気づいていなかったらしい。
頭上からの声に驚愕に驚愕をさらに重ねる事になった。というか思い切り腰が砕けた。
ついでに日記も取り落とす。

「シェムハザ翁の時も言ったけれど」
声の主は私の背後で腰に手を添えて威圧的に立っていた。
「他人の日記を覗き読むなんて感心できる趣味ではないわね」

なんでザギヴ。
多分日記の書き手であろう彼女がこんなところに。
そう答える前にとりあえず私がとるべき処置は3つほどあった。

1:とりあえず謝ってみる。
2:逃げる。
3:皇帝陛下に敬礼!

へちまの件もそうであるように私の反射神経は肝心な時に役に立たない。
おそらくはもう癖になってしまっているのかもしれない。
大慌てで立ち上がり胸元に拳を添えるディンガル式の最敬礼で彼女の前で直立していた。
予想通りというか期待はずれというか、ザギヴの眉がさらに鋭角につりあがり、
視線が睨みつけるそれに変わる。怖い。大変怖い。
…そしてなぜか少しときめいている…。

「次にそれをやったらおしおきだとそう言った筈よ?」
どうやら今は陛下と騎士ではなく「二人きり」の区分に入るらしい。
一度受けると3日は痛みが引かないディンガル軍でも評判のビンタの覚悟をして目を閉じる。
やだなあ。紅くなったらちょっとはずかしいかもしれない。でも少し嬉し…いやいや。
そんな事を態度に表そうものならさらにどんな叱咤が飛んでくるやら…。
しかし目を閉じた暗闇の中で頬に感じたのはふわりと優しく触れる手の感触だった。
拍子抜けして目を開ければ、なおも眉根を寄せているザギヴの面持ちがうつる。

「あなた、確か視察順路の確認と偵察の任に出ていたはずよね?
どうしてこんなルートから大きく外れたところに居るのかしら。説明して下さい」
流石に上司、というか帝国を司る人物としての詰問は厳しく、口調にも容赦が無かった。し
かし、ほかに答えようも無い。単純に迷い込んだのが真実なのだから。

「………また迷子になったのね」
何時もの事とザギヴが大きくため息をつく。
ごめんなさい、と今度は素直に謝った。
「地図があっても迷ってしまう人だものね、あなたは」
寄っていた眉が今度は苦笑いで大きく下がった。
ほっとするのもつかの間、再びきっと目を険しくさせるのが決して甘やかしてくれないザギヴらしい。
「今度からは単独ではなく必ず部下を2名以上連れて行動しなさい。
騎士団に属しているとは言えあなたも今はディンガルの要人なのよ」
なるほど、地理に明るい部下を連れていれば今度みたいに迷う事は無いだろうけど…
「そういうザギヴも一人じゃないか」
昼日中とはいえ、皇帝たる身の人間が一人でうろついていい場所ではない。こんな廃墟であればなおのことだ。
命を狙うものも皆無ではないはず。
…もっとも、ディンガル、もしかしたらバイアシオン5指に入るビン…
もとい魔法の使い手に敵うものが居ればの話だけど。
私の指摘に、きつく向けていた視線を荒れ果てた廃墟へと戻すザギヴの口調は再び皇帝から、
かつて共に旅をした仲間のそれに戻っていた。

 「もう解ったでしょう。…ここは私が昔住んでいた家なの」
思わず唾を飲み込んでしまう。ザギヴ自身やオルファウス、ドルドラムに聞いていたマゴスの襲撃は
思っていたよりもずっと激しいものだった。
目の前でほぼ家の形を失い、緑に飲み込まれつつある廃墟が如実にそれを語っていた。
「それにしても」
案じたほど打ち沈んでいない声色で身をかがめ、ザギヴが日記を拾い上げた。
「焼けずに残っていたなんて。驚きだわ」
愛おしげに表紙の埃を払う姿には過去に拘泥する様子は微塵も無かった。
あれほど過去に苛まれ苦しんでいた彼女の姿を目の当たりにしていた身からすれば今の様子は想像もつかない。
ザギヴが闘争の果てに勝ち取ったものの大きさと、彼女自身の強靭さを今更ながら実感する。
貴女は、強い。……色んな意味で…。
そんな私の思いを知ってか知らずか、日記からふと目をあげたザギヴが私に視線を合わせた。
「読んだかしら?へちまの話」

ウリ目ウリ科ヘチマ属。
「別名糸瓜、自家受粉が可能な一年草…」
私の分類での返答を継ぎながら周囲を見渡している。
視線を止めた面持ちが明るく転じる。
「あった。…すごいわ、ちゃんと生き残っているなんて」
ザギヴは時折少女のようないたいけさを見せることがあるが、
そのときの彼女もまさに、皇帝ではなく身長169cmの少女そのものだった。
ヘチマの繁みを見つけるなり弾んだ足取りで駆け寄っていく。
それをへこへこ追う女騎士のわたくし。
一際大きく艶やかな緑に輝いているひと房を手に取りながら、しきりにザギヴは昔を懐かしんでいるようだった。

「栽培の課題が出されてね。学校の菜園で育てる事になったのだけれど、
皆が朝顔やパンジーを育てる中、私はヘチマを選んだの。可笑しいでしょう。
実をならすのも花を咲かせるように簡単ではないし」
自らの経験をしみじみ語る言葉に、私はただ頷くしかなかった。
かつてチューリップの球根を芽吹く前に腐らせた神業を持つ私には何も言う事は無い。
「でも、驚く事に、他の皆が散らせたりからしてしまう中で、
私のヘチマだけが大きく育ってしまったの。身長みたいにね」
視線を向けて私にご意見を求めているようだ。
ザギヴの場合ここで迂闊に否定すると却って叱られてしまうので素直に頷いておく事にした。
彼女の長身はそれを支えるすらりと伸びた足で自然に出来たヘチマ棚の下で佇んでいる。

「育ちすぎて他の栽培の邪魔になっていたから、この庭に移し変えたと言うわけ。
あとはこの日記にある通りよ」
「でも、枯れてしまったんでしょう…?それがどうして…」
なおもヘチマを優しく撫でながらザギヴが答えた。
私のこともその10分の1でいいから優しくしてくれると嬉しいです。

「庭番の言う通りかれたヘチマの実から取れた種を撒いてみたのよ。…ちゃんと芽吹いて、育っていたのね……」
ほんとうに。かみ締めるように呟くザギヴの語尾が震えていた。こちらに向けている背中が小さく震えている。
泣いているの………?
思わず手を伸ばしかけたザギヴが確かに潤んだ瞳で振り向く。指先で目許を拭いながら。
「…大丈夫よ。悲しいんじゃない。嬉しいの」
生きていてくれた。ザギヴはそう言った。
枯れてもまた芽吹かせれば良い、と記された彼女の日記の一文が浮かんでくる。
彼女はマゴスによってここで死を与えられ、そしてそれを打ち倒す事でようやく生を勝ち取ったのだ。
私にすら感じられる。伸びやかに育ち緑も眩しく繁るしなやかなザギヴの喜びが。
そしてきっと強く逞しく生きていくのだろう、この野生のヘチマのように。
…こんな麗人をヘチマにたとえる私もどうかと思うけど。

「あら」
ヘチマの前から場所をいつのまにか移していたのだろう。少し離れた場所からザギヴの間投句が届いた。
見ると私が驚いて斬り飛ばしたヘチマがその手に握られている。
まだ切口から果実の液を染み出させるそれが転がっていた原因が私にあることは一目瞭然である。
「………のぞむ。これは観賞用だから食べられないのよ」
食欲人一倍の私の事だ。やはり食べるつもりで切り取ったのだと勘違いしたらしい。
そうまでしなくても今はお腹は減ってないです!
…いや、少し減ってきたかな…
少しと言うには盛大に虫が騒ぐ音を隠すためにザギヴから視線をそらしてみせた。
早めの午後を照らしていた太陽もゆるやかに西に傾き始めている。
やがてそれも紅く地平を焦がし夜へと溶かしていくのだろう。
帝国はあの陽より輝く。
ディンガル帝国は今、強く聡明で美しい皇帝を手に入れることが出来たのだ。
その他に何を望むことがあろうか。

「…拗ねてるの?」
何時の間にかザギヴが傍らに来て私を覗き込んだ。
そんなつもりは無かったのだが、私はすぐに顔に出てしまうタイプなのだった。
聡いザギヴにかかればその理由さえ簡単に察知されてしまうに違いない。
ああ拗ねてるよ、拗ねてます。
…でもなんで?自分さえ判らない感情に首を捻ってしまう。
彼女は皇帝だけれど、私はあくまで一介の騎士にすぎない。元冒険者の…
国内が安定するに比例して、ザギヴはどんどん公人として忙しくなっていくし、
その警護を任される私でさえザギヴとこうして話せる時間はますます少なくなってきていた。
騎士として近くに居る事で距離をなお実感できるのは皮肉な話だと思う。
日は昇り、また新しい場所を照らしに地を滑っていく。私の届かない場所まで…
「だってザギヴ、どんどん遠くに行ってしまいそうなんだもの…」
我ながら子供のようだと思うけれど言ってしまったからにはどうにもならない。
つまり私は寂しいと拗ねる子供なのだ。
「今更私が何処へ行くと?」
相変わらずクールに淡々と訊ねるザギヴには理解できないのかもしれない。
何時の間にか私はずっとザギヴが今までのように近くにいると思い込んでいた。
「…いえ、なんでもございません皇帝陛下。もう時間も遅うございます、政庁に戻りませんと」
このままだと泣いてしまいそうなので無理やりにでも騎士に戻る。
傍にいられなくても、貴女を守る騎士ですらなくなってしまったら、私は…

「困った人ね」
指先でこめかみを掻くのは実際に困った時のザギヴの癖だった。
「あなたね。何処の世界にナイトを迎えにくる皇帝が居ると思って?」
………へ?
「あまりにも遅いから私自身が迎えに来たの!散々心配して来て見ればこんな場所で
人の日記を盗み読んだ挙句泣きべそかいているし!しっかりして頂戴!」
矢継ぎ早に叱咤の言葉を繰り出すザギヴを前にして私の涙がすぐさま引っ込んだのは言うまでもない。
…そうか、ザギヴは私を探しにきてくれたんだ……
嬉しいです。嬉しいです。かなり情けない事だけどすごく嬉しいです。
ザギヴがあんまり強いから、少し不安になっただけ。
私が守らなくてもどんどん先に行ってしまいそうだったから。
しかしこのざまでは遠くない将来まさにそれが現実になってしまいそうである・・・。

「私を守ってくれるのだったでしょう?のぞむ」
多分まだ私が情けない顔のままだったのだろう。
子供に言い聞かせる口調のままザギヴが言った。
「私が皇帝であろうが何であろうが、ナイトになって私を守ると。そう言ったわね」
「はい…」
「ならば遅れずについて来なさい。…今日みたいに情けない顔をしていたら…首に縄をつけてしまうわよ」
…そうか…。遠くに行ってしまいそうならその後を追いかけて行けばいいだけじゃないか!
……うーん。縄で引っ張られるのも悪くないなあ…
そう思ううちにいつしか凹み顔がにやけ顔に変わってしまっていたらしい。
今度こそぺち、と軽いものではあったけれど頬を叩かれてしまった。
頬をたたきながらも何故かその顔は先ほどの厳しい調子は消えうせて、
やわらかな、何時しか見せるようになった柔らかな笑みが浮かんでいる。

「ありがとう、のぞむ。もし貴女が今日ここに来ていなければ私は一生、この場所に来る事は無かったかも知れないわ。
ずっと恐れていたこの場所に…」
しかし敷地を見回すザギヴの視線はもはやなにも恐れては居なかった。
「けれど、私は来なければならなかった。父も母も…従妹も祖母も親戚達も、
バロル帝もゾフォルもマゴスも、今や誰も此処には眠っていないというのに、私は一人取り残されていた……
それを貴女が拾い上げてくれたの」
ザギヴがそう言って掲げた埃だらけの日記帳。
途切れた日付のそのずっと前からその日まで、彼女の幸せな日々が綴られていたそれこそ、
何よりこれからのザギヴに必要なものだったのだ。その日記帳を大事に抱えると空を見上げる。
私の慕ってやまない美しく刻まれた横顔が夕暮れはじめた空に彫刻のようにすかされている。
「すっかり遅くなってしまったわ。城では騒ぎになっているかもしれないわね」
その苦笑いからすると政庁を抜け出してきてくれたのだろう…
つい頭をかいてしまう私の腕ににするりとザギヴの手が伸びてきた。

 「……それでは近衛騎士隊長のぞむ殿。政庁までの護送を命じます」

いつかどこかで覚えのある風景だった。
ロセンでの護衛の時もこんな言葉をかけられた記憶がある。
しかしその時と違うのは、私の腕をザギヴが抱え込んで寄り添っている事。
まるで仲睦まじい恋人同士のように……
「ザ…ザギヴ……?」
いいのだろうかいいのでしょうかこんな事うれしいけどえへへへへ。
そんな私の戸惑いなど知らぬ風で、早くも夜気を帯びた風に揺れるヘチマの列を背中に敷地の外へザギヴは私を引いていく。
「…ああ。思い出したわ」
昔からそうなのだろう。ザギヴの足取りは大股で速い。
それに必死についていく私に向かいザギヴが涼しい顔で問い掛けてきた。
「ヘチマの花言葉って知っている?」
………ヘチマに花言葉があるなんて。そのほうが初耳だった。
素直にそのことを告げると、ニヤリと口角をあげて再びザギヴが進行方向をむいた。
路地は早くも大通りへ近づこうとしている。
「ひょうきん、よ」

大通りに出たところで合図でもあったかのようにザギヴの手はすると再び私の腕を抜けていった…
一抹の寂しさに思わず今まで彼女と共にあった腕を槍と共にぷらんぷらんさせている間にも、
ザギヴはどんどん政庁の方へ向かっていってしまう。相変わらず楽しそうに微笑みながら。
その姿が新皇帝であることをまだ気づく市民は少ないようだった。
「中庭にヘチマ棚でも作ってみようかしら」
「ヘチマ植える皇帝なんて聞いたこと無いよ…」
ヘチマ植えるザギヴとか、少女ならともかく今の彼女では想像もつかない。マジで。
きびきびと運んでいた足をふと止めて、ザギヴが振り向いた。
彼女がこんなに輝いた眼差しをしているのを見たのは初めてだった。
「あら、いいじゃない。大好きなんだもの」
私をじっと見つめ、黙り込む。周りの景色が色を失い、消えうせていく。
そこには引き締めた唇と真剣な視線のザギヴと大きく胸をうつ私の姿だけ。
随分長い時間に思えたその瞬間も実はほんの一瞬の事だったのだろう。
くると踵を返し再び歩き出すと鴉の羽のように光を帯びた黒髪の束がその動きになびき従い、
政庁にたどり着くまでザギヴがこちらを振り向く事は無かった。

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ずっとついて行くよ。ザギヴ。
私の最愛の皇帝陛下。
私たちの邪魔をするなら皇帝の椅子でさえ蹴飛ばしてやる。
だから、私はもっと強くなるよ…。貴女をしっかり守れるように。
…そしてなるべく、迷子にはならないように…。

その後、中庭にヘチマが本当に植えられたかどうかは、ご想像にお任せするとしよう。

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